プロサーファー「関谷利博」インタビュー
TEXT : HIROKO TANIUCHI
PHOTO : HIROKO TANIUCHI , DAVE YAMAYA
生まれは、千葉県の天津(あまつ)。
海のそばで、温かく温暖な人情味あふれるのどかな漁師町だ。
5人兄弟の末っ子で、姉3人兄1人。幼い頃の関谷は、髪を長くし、姉の服を着させられ、「とっこ」という女の子名で呼ばれていた。
17歳のときに他界した父親は、左官業。寡黙な職人気質だが、酔うと必ず幼い関谷に腕相撲をしかけるという、そんな、やさしい父だった。
14歳のときに兄の影響でサーフィンを始める。当時住んでいた天津から鴨川までは自転車で約40分。雨の日も風の日もサーフィンの虜になってからは足繁く通った。
そんな、サーフィン熱中時代を当時ささえていたのは、鴨川の老舗サーフショップ「ノンキー」のハルさん(大久保治彦氏)だ。
学校にろくすっぽ行かない関谷の首根っこを捕まえて学校まで連れていったという話はあまりにも有名。今となっては、笑い話だが、それだけ、サーフィンにハマっていたという証拠だろう。
その後、学校をサボってサーフィンをしていた努力の甲斐もあり、ノンキー(当時のシェイパーは萩野氏)のライダーとなる。
1987年、JPSA(当時の日本サーフィン連盟)の試合が鴨川で行われた。
サーフィンを始めてから、驚異的なスピードで上達していた関谷は、17歳という若さで、しかも、サーフィン歴2年半と言う速さでプロ公認を獲得し、さらには、その年、ベテランプロを押しのけ、トップシード(16位以内)入りを果たした。
17歳から42歳でプロを引退するまでの足掛け26年もの間、休むことなく、その座をキープし続けた事は記憶に新しい。
1990年代に入ると、関谷は日本だけにとどまらず、舞台を世界へと広げていった。
20代前半で、ASP アジアランキング2位(当時の優勝はマシュー・ピッツ)ASP(現在のWQS)においては、世界ランキング 97位という、日本人として100番以内に食い込む偉業も果たした。
18歳で、2番目となるボードスポンサーである Y.U(植田義則氏)と出会い、新たな新境地をひらく。
23歳で結婚し、順風満帆に華麗なるプロ生活を過ごし26歳になっていた、まさにそのとき、関谷は大怪我を負う。
そこは、地元鴨川から車で南へ走ること数十分。そこには リトルパイプラインとも呼ばれる最も危険なシークレットリーフポイントがある。グーフィーフッターである関谷にとっては冬のハワイシーズンを前に格好の練習ポイントとなる大切な場所だ。その日も、関谷はいつものようにパドルアウトした。波は、チューブの極上な波。しかし、運命のいたずらか、思いがけずに波に飲み込まれ、足をへし折られてしまった。
必死の形相でもがき苦しんでいるところを仲間のサーファーに助けられ、救急病院へと運び込まれた。スポーツ選手にとっては致命傷となる、膝の陥没骨折だった。
急遽、鴨川の大きな病院へ運び込まれ、腰の骨を移植するという6時間半にも及ぶ大手術が行われた。
選手生命が終ったとも思える瞬間だったが、約、半年にも及ぶ長く苦しいリハビリを関谷は耐え、再び不死鳥のごとく甦った。しかしながら、16年経った現在でも、8本のボルトは膝の中で眠っている。選手生活を終えた今、そのボルトは役目を果たしたかのごとく、抜き取られる予定だ。
31歳のときに、鴨川にボードファクトリーを持つ、プロロングボーダーで、関谷と同じくパイプライナーでもある谷内太郎氏の造るボードに乗ることになった。
「アマチュア時代から同じ鴨川ということで、太郎さんにはお世話になっていたんだけど、30歳を機にサーフボードのシェープに興味を持ち、将来、サーフボードシェーパーとして、ボード造りをしてみたいと心からおもうようになったんだ。
でも、シェーパーの道を選んでからは、大変なことの連続で、最初は機械も使いこなせないから、太郎さんにそれこそ手取り足取り状態で教わって(笑)
今は、プロサーファーとしての経験を生かし、Graceのスタッフと日本全国を回って得たユーザーさんたちからのフィードバックをもとに、その地域の波に合った、ボードを提供させていただけるまでになった。
特に、Graceは数多くのモデルがあるから、細かく詳細に、それこそ、各地のポイントでユーザーさんたちと一緒に海にはいって、サーフィンを見てより良いものづくりの参考にさせてもらっているよ。」
17歳ではじめてハワイに行ってから、約20年間ハワイに通い続けていた。ハワイ以外の海外にももちろん取材や、撮影で何度も訪れてはいるけれど、ハワイには、グーフィーフッターにとってはかけがえのない聖地である「パイプライン」という素晴らしいポイントがあり、そこは、世界各国から多くの有名サーファーが訪れる。
そんな、世界中のハイレベルなサーファーと同じ土俵で同じ波を滑ると言う事はなかなか出来ない経験だし「パイプラインの神様」と呼ばれたレジェンドサーファー「ジェリー・ロペス」氏も滞在していたことのある、パイプラインの目の前の家に住み、波を、その場所を共有できたと言う事は、とても、貴重な経験で大切な思い出。
パイプラインでは大波に巻かれて苦しい思いもたくさん味わったけれど、12フィートの極上の波に乗って最高にアドレナリンがでたことも、いまとなっては、かけがえのない瞬間だった。
だから、もし、「いま、夢はなに?」って聞かれたら、間違いなく、「シェーパーになった俺の削った板でパイプラインをもう一度滑ること」って 答えるよ。
その日の朝の俺は、「最後の時がついに来た」っていう複雑な想いでいっぱいだった。
2012年度のJPSAの最終戦は奇しくも鴨川での開催となった。プロ公認を得たのも生まれ育ったここ鴨川。引退も、その鴨川。
最後となったヒートが終わり、海からあがってくる途中で、大勢の仲間が水際まで押し寄せてきているのが見えたんだ。そのなかには、鴨川のローカルの先輩、後輩、お世話になっている方々、長い間支えてきてくれた嫁さん、ギャラリーのみんな、プロサーファー仲間、プロを引退して運営人にまわって頑張っている元同僚、とにかくたくさんの人たちが集まってきてくれて感激で涙が止まらなかったよ。
17歳でプロになってからというもの、俺は優等生プロじゃなかったし、不良でアウトローなタイプだったから(かげで番長とかって呼ばれて怖がられているみたいだったしな・・・)試合を一時中断してまで、俺のために、引退セレモニー的なアナウンスをしてくれたのには、感謝の言葉しかでてこないくらい、ほんとうに、嬉しい瞬間だったよ。
実は、昨年はプロ生活を続けるかで、本当に、迷っていたんだ。正直、40歳を過ぎて現役で選手でい続けるということは、体力的にも、精神的にも、言葉では言い表わせないくらいハードだったからね。
でも、Graceの仲間と、震災後の東北地方をいち早くまわって、それこそ、まだ、誰も訪ねていない頃だけど・・・そこでは、想像を絶するような光景や、惨状を目の当たりにした。けれど、逆にものすごいパワーをもらったんだ。計り知れないくらいのパワーをね。
そのあとだよね、「俺は、まだ、いける!限界超えるまでやってやる!」って。
だから、ここまで、長い間、選手として(JPSA史上最長)がんばれたのは、俺だけの力じゃなくて、俺を支えてくれたみんなのおかげって思っているよ。
それから、日本全国で、良い波にめぐり合わせてくれた、ローカルサーファーのみなさんにも、心から感謝している。それは、かけがえのない俺の財産だと思っている。
だから、長い間、サポートしてくれたスポンサーももちろんだけど、今ここで、出会ったすべてのサーファーに感謝するよ。
26年間 ありがとう。
関谷利博(せきやとしひろ)1970年7月31日千葉県生まれ。JPSA公認プロサーファー。現役プロとして26年間(JPSA史上最長)の活動を経て、今季最終戦にて引退。現役時代の輝かしい成績、日本及び、世界中の波を知り尽くした経験を糧に、現在はGraceサーフボードでボードのシェープにいそしんでいる。全国にコアなファン層を持つカリスマ。
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