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ホプトン・スミス – Hoptong Smith - GO NAMINORI インタビュー

INTERVIEW

Hoptong Smith  ホプトン・スミス

1975年 8月27日生まれ 35歳
ハワイを代表するサーフスポットであるマカハ出身のプロサーファー。10代のころから、その天才的なセンスと、人並み外れた身体能力を武器に、数々のコンテストで輝かしい戦歴をレコードしてきた。現在は、数々のアクシデントを乗り越え、再び、メインステージへと駆け上りはじめた。
ハワイアンとしての誇りを持ち続けるフリースタイルのカリスマ。

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サーフィンとの出会いは・・・

それは、突然の出来事だった・・・当時、6歳だったホプトンの父親が亡くなった…。海軍の軍人だった父は、ベトナム戦争の最前線に行っていた。凄まじい戦争での体験が、言葉では言い表せないほどのストレス、トラウマとなって彼の父へとハワイへ帰還してからも押し寄せていた。父を亡くしたその後の家族に待っていたのは、ワイアナエ地区にあるカエナポイントという浜辺でのホームレス生活。しかし、男3人兄弟の末っ子だったホプトンは、それ以来海を目の前にした生活の中で、兄にすすめられサーフィンを始めることとなる。

ホプトンはすぐにサーフィンの虜になった。そのたぐいまれな才能は、当時の友人、ブライアン・パチェコ(ハワイの有名プロサーファー)の父の協力もあり、12歳のころには、スポンサーがつくほどになっていた。ブライアンの父は、サーファーではなかったが、サーフィンのルールを勉強し、彼らに惜しみなく教えてくれ、常にコンテストに連れて行ってくれた。ブライアンとは年も同じで仲良しだったので、ともに素晴らしいサーファーとして成長することができた。ローカルモーションハワイにいたトニー・モニーツらとも一緒に活動する機会を与えてくれた。

その頃、ブルー・ハワイがホプトンのスポンサーとして名乗り出た。サニー・ガルシア、マーティン・ポッターなどのトッププロが所属し、あの、ビッグウェイバーとして名高い、今は亡きマーク・フーがティームキャプテンだった。ホプトンは当時のことを思い出しながら、「ボードファクトリーへ行くとスター選手達ののボードがたくさん並んでいたのは今でも鮮明に覚えているよ。」と興奮気味に語ってくれた。

レラ・サンとの出会い

マカハのレディースレジェンドサーファー故・レラ・サンがホプトンを日本へと導く手助けをしてくれた。「マカハに若くて、とてつもなくサーフィンの上手い子がいる」と、当時マカハに住んでいた日本人フォトグラファーの近藤公朗氏に伝えてくれたのだ。近藤氏は当時SW誌のシニアフォトグラファーを務めており、早速、ホプトンの特集ページが組まれた。

その後、ハワイ島で開催された、バニアン・ブラストコンテストには、シェーン・ドリアン、キース・マロイ、コナン・へインズ、グレッグ・ブラウニングなどのそうそうたるメンバーがエントリーしていた。そこへ、マカハの無名サーファーである若いホプトンが出かけて行って、プロクラス、アマチュアクラス共に優勝をかっさらってしまった。「俺が、予想に反して優勝しちゃったから…コンテストディレクターが賞金を払ってくれなかったんだ。無名な俺が、プロを差し置いて両方優勝しちゃったもんだから…大人の事情がいろいろあったんだろうね・・・いまでも、そのお金はもらってないけど、ある時、サーファーマガジンのインタビューでシェーン・ドリアンがこう書いていたよ…一番手ごわい相手は俺だったってことをね…その時は変な差別にあったりしたと思ったけど・・・・もう忘れたよ・・・22歳くらいまでは、アンフェアーなサーフィンライフが続いたことも多かったけれど…今ではいい思い出さ。

娘 シェイディーの誕生

24歳の時、高校生の頃から付き合っていたガールフレンドとの間にベイビーが出来たんだ。正直言って、その頃の本音をいうと、すごくハッピーだった気持とはうらはらに、生活のことを考えると、これから先大好きなサーフィンを続けられるかどうか不安だったんだ。サーフィンを捨てなくちゃいけないのかって複雑な思いがね・・・・だけど、ガールフレンドのお父さんがとてもいい人で、母親のいなかったガールフレンドの父とベイビーの面倒をみるということで生活費を出してくれたんだ。ガールフレンドも働いて生活を助けてくれた。俺は、恵まれていたよ。結局、結婚はしなかったけれど、グッドな家庭だったと思う。今は、理由あってガールフレンドとは離れてしまい、娘のシェイディーと二人暮らし。俺の母親や兄貴ファミリーがサポートしてくれているよ。娘は俺の宝物だからね。

サーフィンスクールで大成功

26歳くらいだったかな…MOKU HAWAIIという洋服メーカーが俺のスポンサーについたんだ。俺はハワイのステイトチャンピオンでアマチュアトップライダーとして招かれたんだ。リアム・マクナマラがプロライダーだった頃だよ。その頃の思い出の大会としては、ハレイワインターナショナルの30周年記念コンテストのメンズデビジョンだね。その日のハレイワは、10-15フィートの波がばんばん来ていたんだけど、俺は、なんと、長さ5’9’’フィートのボードで優勝したんだ。信じられるかい?乗りに乗っていた頃だよ…。

その勢いに乗って、俺は、ワイキキでMOKUのショップ&サーフィンスクールを任されたんだ。一生懸命やったよ。お客さんもたくさん来てくれて。俺のやり方は成功したんだ。ハワイでナンバー1のサーフィンスクールって雑誌でも紹介されたんだから間違いないよ。だけど、そのうち、お客さんの取り合いになっちゃってさ・・・俺のやり方を真似されたんだ…そして、マネージャーがそのうちナイトクラブを始めちゃってさ…そうなったらもう、自然に俺は、そこからは離れていったよ。海がないと生きていけないからね…

サーフショップオープン初日の大怪我

とまぁ・・いろいろ、あったけれど、俺は大好きなサーフィンのことで飯を食っていこうって決めたんだ。マカハの友達もみんな俺にサーフショップをやってほしいと願っていたしね。だから、そのためにいろいろと準備をしたんだ。そして、やっとのことで店を手に入れたんだ。店の鍵を開けに行く日のことは今でも鮮明に覚えている。うきうきする気持ちで鍵を手にして、店に行く途中で、俺は少し波があるからサーフしに行ったんだ。そこで 高いエアリアルをキメたと思った瞬間に着地に失敗してものすごい衝撃と激痛が走ったよ。近くの病院に救急搬送されたけど、足はねじれて螺旋状に折れて、まるでグルグルキャンディーみたいになっちゃったんだ。1万人に1人という奇妙な足の折れ方をしたもんだから、近くの病院ではちゃんとした措置をとれなかったみたいで、最初の病院では足が腐りかけてひどいことになってしまったんだ。慌てて、ハワイで一番大きな病院クイーンズへといき、16時間にも及ぶ大手術を受けたんだ。その時、俺は医師から足の切断もありうると説明を受けた。あまりのショッキングな通告に娘も泣いていたよ。でも、幸い俺の脚は治った。いまでも、大きなメタルバーがガッつり入っているけどね。その頃、ハワイのMOKU時代にお世話になったデイブ・山谷氏が日本の鴨川に住んでいて、GRACEのオーナーシェイパーである、谷内太郎氏を紹介してくれたんだ。俺は、こんな状態の俺をスポンサードしてくれるというサーフボードメーカーがあるって聞いて、このチャンスを逃すわけにはいかないと思い、一生懸命リハビリとトレーニングをしたんだ。包帯だらけの脚を引きずってね・・・

その甲斐あってか、いまでは、再びエアリアルの出来る足が戻ってきて幸せだよ。人間どんなことがあってもあきらめてはいけないと思わされた。このインタビューを読んでくれている読者のみんなにもそのことを伝えたい。自分を信じて夢を叶えるためにはあきらめずに頑張ることをね。

マカハ・バッファローファミリーに寄せる思い

俺をサーファーとして成長させてくれたハワイのマカハは素晴らしいところ。マカハのレジェンド、バッファロー・ケアウラナ氏はマカハにいるサーファーたちの偉大な父。サーフィンの歴史のあるこのマカハではバッファロー氏からはたくさんのことを学ぶことができる。サーフィンの歴史の生き証人みたいな存在だからね。バッファロー・ファミリーのことを尊敬しているよ。だから、俺も、マカハローカルとして、ハワイアンとしての誇りをもって、これからも過ごしていきたい。自然を大切に、家族を大切に、友達を大切に。シンプルだけど、とても大切なことだと思うよ。ここは、ひとつの大きなファミリーのような温かさのある場所だからね。


最後に・・・
俺のいまの希望と夢は…娘と日本に行って暮らすこと。もちろん、日本のプロサーファーとしてコンテストに出場したい。そして、海の大好きな娘シェイディーにはプロサーファーになってほしい。まぁ、一番の願いは、家族がみな健康でいられることだけどね・・・・・長いインタビューを読んでくれてありがとう。みんなの健康と幸せを願っているよ。

Hoptong Smith


SPECIAL THANKS
今回のホプトン・スミスインタビュー の写真・テキストは全て、谷内 浩子 氏 によるものです。GO NAMINORI のBLOGER であり、フォトグラファーでありジャーナリストでもある彼女。ご協力ありがとうございました。 

 

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