1990 Niijima Island Turning Point

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みんなにとって、これは普通の写真に見えるはず。でも僕にとっては壁に飾りたい数少ない写真の一枚だ。なぜって?これは22年前に新島で撮ったもの。1990年、僕はワールドアマチュアコンテストに出場するために新島にいた。ケリー・スレーターやシェーン・ドリアン、ロス・ウィリアムス、テイラー・ノックス、ロブ・マチャド、その他大勢のサーファーと競い合ってたんだ。僕はそこに行くまでかなり頑張り、色んな事を犠牲にし、稼ぐために身を削ったよ。
これはコンペティションの僕のヒートの時。叶うわけのない夢だと思ってた。ヒートのすぐ前にチームマネージャーが僕を海から上がらせて、彼の甥っ子を僕の代わりに出場させたんだ。彼の甥っ子は僕の友達だったから、すごく複雑な気持ちだった。彼に頑張って欲しいと思っていたと同時に、立場を奪われたような気分だった。内心ではハラが立ってきて、感情を抑えるのが大変だった。そう、マネージャーは僕よりも20歳年上だったけど、それは関係なかった。クレイジーになってタウンで暴動を起こす代わりに、僕はまっすぐコンテストのオフィシャルエリアへ向かい、オフィスからマネージャーを呼びつけて目の前に立ちはだかった。そして自分は試合に出る、今すぐに戦いたいんだと話した。僕は、年上で強く、たぶん僕よりもクレイジーなその人に今にも飛びかかってケンカを仕掛けるところだった。でもそんなことどうでも良かった。みんながオフィスから出てきて、若い少年がコントロール不能になりそうなのを見てた。その時、ある日本人の男の人が来て肩をたたき、”カービー、落ち着きなさい”と言った。僕は彼を見たとたんキレそうになった。だけど、彼の声やマナー、僕に歩み寄ってきた雰囲気のおかげでほとぼりが冷めた。しかもその日まで彼がどういう人だったか知らなかったんだ。彼の名前はカワベ・ケイゾウ。ケイゾウさんは僕の後ろに立ってる右上の人。ひげを生やし色黒のが僕。笑
なんとかクールダウンしたけど、立場を奪われたことには我慢が出来なかった。民宿に戻った時、ハワイのコンテストディレクターに電話をかけて何が起きたかを話した。彼は僕に落ち着くようにと言い、今すぐに新島を出るか、後悔するようなことをしでかすか、どちらかだと言った。その時の僕がどんな風だったか理解していたんだろう。だから僕は島を出る次のフェリーを予約した。どこへ行くか、何をするかも分からなかったけど、ただこの島を出るべきだと思ってた。島を出るときに、ケイゾウさんが横浜に住んでいるチャーリー・チャーチの弟トムを紹介してくれた。その後、弟が、東京にいる昔のホストファミリーへ電話するようにと話してくれた。そして東京へ戻る寂しい8時間のフェリーでの旅と同時に、ある出来事が始まった。僕は彼に迎えに来てもらって、もてなされ、東京の観光に連れて行ってもらい、初めての日本人のガールフレンドに出会い、その後のことはご存知の通り。
今でもケイゾウさんが僕の人生を変えたあの日のことを考える。もし彼が僕のことをなだめてくれなかったら、おかしなことをしていたはずだ。知らない国でケンカをして、きっと逮捕されて日本が嫌いになり、サーフィンのキャリアも終わっていただろう。だけどケイゾウさんのおかげで僕は日本の美しい文化を知ることができたし、親切な日本のみんなに出会えたし、そこに住んでみたいと思わせるほどたくさんの経験が出来た。
このことは僕の人生の大きなターニングポイントだった。だから、僕が誰なのかも知らなかったカワベ・ケイゾウさんには感謝したいと思ってる。true japanese spirit!
** 日本について学んだことについてちょっと話すね。年上を敬うことを学んだ。年上の人をどうリスペクトしたらいいか学んだ。もし僕が日本で生まれ育っていたら新島でも同じように出来たのに。日本のみんなが年上の人や周りのみんなをリスペクトすることにすごく感動したんだ。日本に旅行して、素晴らしい人にたくさん出会ったことで、僕はどうやって他人を許すかを教えてもらった。今でもあの時のことは忘れ難いけど、うまくやってる。笑

KIRBY FUKUNAGA
ハワイで生まれ育ち、プロサーファー、フォイラー、スキンダイバー、カメラマンの肩書きを持ち、ウォーターマンとして、海で多くの時間を過ごし、海から多くのモノをもらいながら生活しています。彼が伝えようとしていることは、海がある生活は僕らを豊かにしてくれるということ。そして、自分だけではなく、いろいろなことをみんなにシェアし、人生を楽しむということ。現在は、ハワイでプライベートサーフィンガイドを主催。
カービー福永のハワイサーフィンガイド
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