過去30年間、福永のおじいちゃんとおばあちゃんは富士山について何度も話をしてくれた。二人共1979年に登って焼き印の付いた杖を持ってる。だからおじいちゃん達の家に毎週日曜の夜ディナーに呼ばれて行くたびに、テレビ上に飾られた富士山の写真と杖をよく眺めていた。そしていつもいろんな事を質問していた。自分の目で初めて富士山を見た16年前、サーフィンに行くため藤沢の家を出て西に曲がった途端富士山がそこに見えた。このでかい山は僕を見ていた。半分雪に覆われていて、すぐ頭に浮かんだのは祖父母の家にあった写真。まったく同じだった。そして山頂を見て二人が頂上まで登ったなんて信じられなかった。それから毎回富士山を見るたび祖父母を思い出す。きっと僕は多くの人に僕の祖父母が登った話をしたと思うが、日本人人口のたったの 0.5% の人達しか登った事のないこの山に祖父母が登ったという事を僕はとても誇りに思っている。最近おばあちゃんが亡くなり、おじいちゃんに会いに行った時写真と杖はまだそこにあった。何かバシッときた。僕は頂上に登らないといけない気がした。この何年も聞いているストーリー、自分でも体験しないといけないと感じた。だからこの富士山の頂上に登り日の出を見ておばあちゃんに話しかける、これが僕の使命となった。僕のおばあちゃんは人生にとても大事な事を教えてくれた。それは言葉ではなく見本となって教えてくれた。そしてそれは”無償の愛”、その人がどうであろうと愛するという事。おばあちゃんはみんなを愛しそれを示してくれた。そして富士山に登る途中はきっとずっとおばあちゃんの事を僕は考えてるだろう。おばあちゃんがどれだけ僕を愛してくれたか、そして僕の人生に中でいつでもそこにいてくれてた事。。。
Mount Fuji….
What if…
僕は1992年にサラリーマンというキャリアを求めて日本へ行った。大学を卒業し履歴書もあった。今でも僕の言ってる事が冗談だと思ってる人がいるけど本気だった。日本に行く1週間前には liberty house(現在のmacy’s)にて1000ドルで2着のスーツを買った。車やテレビなどハワイにあるものすべて売って、自分の大事なペットの魚まで友達に譲った。このスーツは日本に行く前に家で試着し、それが最後だった。今考えてみるともし日本でサラリーマンになってたらどうなってただろう?今みたいにハッピーじゃないだろうけどちょっと興味がある。まったくの会社員になってるだろうか?それともアル中?成功してる?それか週末サーファー?それか仕事辞めてサーフィンに戻ってるか?まあそうだろうね。でもトライしてみたからね。今思うとチャンスと掴んで自分に合った道を見つけたんだ。サーフィンを通して見る事ができなかったかもしれない世界を見れてる。これは僕を利口にしてくれたし、自分が今持ってるものへ感謝できる。ローレックスの時計やベンツの車、何億もする家などは僕にはいらない。今自分の回りにあるもの、この世界で出会った友達で僕は十分ハッピーだ。これは何にも換えられない。でも時々”もしも、あの時。。。”と不思議に思う時もあるんだけどね。。。
Tahitian Dreams…
こんにちは。ボウルズでのサーフから戻ってきた。波はファンであまり人もいなかった。天気はナイスでクリーンアップだ。飛行機乗り遅れるから準備しないとだ。。。see ya..
15年程前にタヒチへ糟谷修自とマーとサーフィンワールドの取材で行った。それからずっとまだ行きたかった。また今回行けるチャンスができ、おしっこちびりそうなくらいエキサイトしてる。黄金のチャンスが到来したので逃さない。これからの7日間80年前のハワイのような時間を過ごしてくる。今回はカメラ持っていくよ。。。
これから1週間5000の写真を撮るだろうな。飛行機乗り遅れる前にエアポート行かなきゃ。 have a nice day….
そして最後は自分のコンピューターのライブラリの整理でたくさんのいい写真を削除してる。去年の冬の海で撮った写真。ビーチから泳いで行きこの日”一体自分は何をやってんだ?”と思った。15’で超クレイジーだった。サーフィンもハードだけどボード無しでそこへ泳いでいるのもクレイジーだ。。。削除前にこのギャラリーをチェックして欲しい。。。永遠に削除されますよ。。。