木曜日 2月25日 2021年
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谷内太郎 – Taro Taniuchi –

谷内 太郎(たにうち たろう)

1966年1月21日生まれ、44歳。東京都出身。画家の故谷内六郎氏の長男。13歳の時にハワイで初サーフィン。15歳から千葉県鴨川市でサーフボード ファクトリー修行の道に入り、25歳でJPSAロングプロとして活動しながらサーフボードシェイピングを本格的にスタート。30歳でグレースサーフボード を設立。マジックボードを提供するシェイパーとして国内外で絶大な信頼を寄せられている。もちろんグッドサーファーとしても知られた存在で。ハワイのパイ プラインを筆頭とするビッグウェイバーであり、日本国内をくまなく旅するウェイブハンターでもある。
主なスポンサーは、ダブウェットスーツ、T-Line、エニシ、Zen、Maneuverline、Ronin、ルールズピープスなど。
GRACE SURF
http://www.gracesurf.jp/

INTERVIEW

Q : 暑い夏です。今年はどう過ごしました?
一年に2回の全国波巡りをやってました。親子で行って、サーフボード試乗会やりながら。日本全国のディーラーさんを尋ねてます。
今年の夏は、九州の日南でグレースのライダーをやってもらっている仲迫ケンゴ君の所で楽しませてもらってから、広島から日本海の島根で遊ばせてもらって、最後は大阪に行って一泊。淀川でボートサーフィンしました。連れて行った子供も大喜び。ボートサーフィンは普通のサーフィンで立てない子が、最初から立てちゃうから凄い楽しい。出来る子はアップスンも始めちゃったりして上手くなっちゃう。大都会のらロケーションも違うノリだし、波を立てて引っ張ってくれるモーターボートの目の前でパフォーマンスするから皆の盛り上がりも半端じゃない。最高でした。

Q :楽しかったでしょうね。夏は仕事が忙しいのかと思ってました
サ?フボードファクトリーにとって、夏のお盆が過ぎると一年の半分以上が終わったという感じ。
あとは一息ついて、秋にも同じように南は九州から北は北海道へと仕事をかねる旅に出る。そして次が冬のハワイ。だからハワイの前に、もう一つ二つ仕事のピークが舞い込みますようにと心で祈りながら、毎年ハワイに行く日を待っているわけです。
Q :グレースサーフボードの”グレース”とは、どんな意味合いが込められているんですか? それとロゴマークは円形で特別に意味がありそうなデザインですね。
グレースにはいろいろな意味があって深い言葉で、その中でも、祈り、恵み、感謝、そんなイメージを大切にしたサーフボードにしたかったので、受け取る気持ちを大事に、パワーをいただきながら、いいものを造っていきたいと願ってグレースに決めました。ロゴマークは、小学生時代から仲良く家族ぐるみでおつきあいさせてもらっている画家の横尾忠則さんが製作したくれたものです。
地球と海と南十字星がデザインされています。この3つが、横尾さんのサーフィンに対するイメージなんです。15年前に自分自身でボードメーカーを立ち上げる時に、シンボルとなるマークを横尾さんにお願いしたら、「あ、そう、わかった。」と簡単に引き受けてくださった。あの頃のサーフボードにはアルファベットの横文字を崩したマークがほとんどだったけど、出来上がってみたのは丸形。想像を超えていてビックリしたけれど、完成に至るまでのラフを見せてもらうと感動に変わりました。
自分にないものをイメージにする力。サーフィンやったことのない人が、ここまで造り込んできたのは凄いことだと思った。
Q : サーフィンとの出会いとは、どんなものだったんですか?
小学校を卒業するまでは東京。中学生からハワイへ母親と移り住むことになって、学校の同級生のハワイアンの家族がやっていたワイキキのレンタルボードでサーフィンしたのが最初でした。ハワイで暮らすことになったのは自分の小児喘息を治すには空気の良いところということで両親が決めたんです。父親も同じ病で子供の頃に千葉の勝浦で療養していたからで、息子はハワイで治してやろうと考えたんでしょう。
Q : ハワイの子供としてサーフィンのスタートを切るんですね。
タウンの公立小学校で、ハワイアンもさることながら、ベトナムのボートピープル、ラオス、トンガとかの子供が多い学校で、俺は友達と一緒に道路で新聞売りの手伝いなんかもしたりして仲良く暮らしていました。
その中のハワイアンの一人がワイキキのビーチボーイの息子で、『サーフィンやろうや!』の一言でハマって。それからは毎週ビーチに行ってました。その後ワイキキからハワイカイの公立中学に移ってからはダイアモンドヘッドとかで毎日学校が終わるとサーフィンしていました。

Q : 楽しくて、夢中だったんでしょうけど、子供ですから外国暮らしは辛いこともあったんでしょう。
母と二人でハワイに移住したのですが、辛いことは、まず英語がまったく最初解らなかったこと。それと、当時はまだまだ人種差別があったこと。しかも、日本人留学生は俺一人だけだったから、生活や考え方がそれぞれの国によってまったく違うということも痛感させられたし。でも、それが今思えば凄い刺激になったし役立っているんですけれどね。
Q : サーフボードシェイピングをするようになったきっかけは?
父親の影響ですかね。太郎は職人になれ。職人になれと、子供の時からずっとそう言われて育ってきたんです。俺の部屋は父親の仕事部屋で、夜に父が絵を描いている横に布団を敷いて寝るんですけど、何かというと職人になれといわれ続けてました。それが今の自分になるきっかけだったんでしょう。
初めてサーフボードが美しくて素晴らしいものだと意識したのはハワイ2年目の時でした。自分のサーフボードが欲しくなって探していたら、学校の近く、アラモアナの裏にディック・ブルーワーのショップがあって、ラリー・バートルマンやデーン・ケアロハのタウン&カントリーの中古も見たけど、ブルーワーのティントのガンがたくさん並んでいた。黄色、赤、グリーン、ブルー、キラキラ透明に輝くティントカラーにラミネートされたブルーワーの新品ガン。あまりの美しさに「これだ」と衝撃が走った。’80年代の出来事です。店員さんは日本人の方でした。
でも翌年に父親が亡くなったんで日本に帰国しインターナショナルスクールに入ったけど、その時にはもう父親に言われたとおり、職人、サーフボード職人になろうと決めていたのですぐにやめて、親戚が鴨川に住んでいたので、ミッキー川井さんを紹介してもらいました。そして、挨拶に行って、サーフボードの勉強をしたいとお願いしたら、『やってみるか』と、俺を受け入れてくれたんです。それから28年。ずっと鴨川でサーフボードを削り続けてます。
Q : マジックボードを手にするために、サーファーがボードをオーダーする時に、一番大切なことはなんですか?
シェイパーとのリレーションシップを深めることです。どんなボードが欲しいのかを出来るだけ細かく伝えることです。どこが、どういう波の時に、どう乗りたいのかを、できるだけ正確に伝えて欲しい。でも、たいがいは感情が入ってしまうんですね。ライダーの実力レベルもそうですが、心や身体の調子でサーフィンは上手くなったり下手だったリ。自分に自信があるサーファーほど落ち入りやすい。波の状況や、サーファーの実力にあわせ、求めるライディングやスタイルを実現させてあげやすい道具を造るのがシェイパーの基本。正確な情報を集めるのもシェイパーの仕事の一つですね。

Q : グーフィーでパイプライナーの太郎さん。初めてパイプラインにライドしたのはいつだったんですか?
18歳の時ですね。小川昌男さんと一緒に行って、ベルジーのヒロさんハウスで堀口鉉気さんとルームメイトさせてもらった冬です。パイプラインは子供の頃から穴のあくほど見ていました。中学生の時は行かなかったけど、グーフィーの波で、あんなにでかいチューブでしょう。ビッグウェイバーはヒーローで尊敬される。自分もその中に入りたい。乗りたい。やりたい。いってやる。でかい波に乗れなきゃ。そういう気持ちが身体中に充満していた。乗って自慢したかったというのもあるけど熱い気持ちです。
Q : 実際にパドルアウトするとどうでした。
待ちに待った3月のパイプラインでした。サイズは8?10ft。10人ぐらいのサーファーが入ってました。セカンドリーフが割れるかどうかでしたけど、ビッグセットが入ると沖からグァーと波のピークが盛り上がってスゲー景色。もちろん俺はインサイドにスタンバイしてました。それでタイミング見て夢中でパドルしたら、いきなり1本目から乗れました。ドロップするんですが、波が巻いてきてボトムに降りていかない。でもなんとかメイク。それでテンションが上がってメンバーがポジションしているピークに入っていった。チャンスはすぐに来た。6ftに狙いをつけて夢中で漕いだ。行ける。そう思った瞬間、空中を頭から真っ逆さま。水面におちる瞬間に海底のリーフの影がズウァーと目に入ってきて、そのままズッポリとパーリング。しかし身体は水中に深く入らず波の面に巻き上げられて無重力状態。そこからズダーンとリーフに叩き付けられてボードはまっ二つ。分からされました。ベルジーの家への帰り道、テイクオフできた喜びと、痛い目にあった地獄、もっと乗りたいという欲、この3つが頭の中でグルグルと交錯してました。馬鹿とは言われるけど、これがパイプラインなんだと、鮮明なイメージとして心に焼き付いています。

Q : さて、9月の声を聞いたら北海道ツアーに出かけるんですね?
毎年恒例になりました。初めてお世話になったのは12年前です。ハワイのクイリマにあったダブハウスで知り合った田川昇さんとの縁で北海道に通うようになったんです。ヒロオ方面や襟裳をサーチしてからすっかりハマって、東から北まで車で走って、ポイントを見つけ出しては楽しませてもらった。昇さんがキャンピングカーを買ってからは、さらにハマって、2人で走って走って凄い波を見つけた。今では、うねりの方向や低気圧の動きを読めるようになったし、各地のロコサーファーからも情報が入ったりしてネットワークが出来上がってきたと感じてます。
Q : 今後も旅は続きそうですね。
試乗会の旅はずっと続けていくつもりです。サーフボードを50本もって、年に2回、春と秋に北海道から沖縄まで、日本海や太平洋を1ヶ月かけて巡るんです。各地ローカルそれぞれの現場の現実に触れることが大切で、ボード作りのアイデアやサーファーが求めてるデザインを発掘していくんです。旅は楽しい反面、身体が大変ですけど、どこに行ってもあたたかく迎え入れてくれるし、いろいろなことを教わるんで、それが今の俺にとっては1年を通じての大切な仕事になりました。
Q : 最後に、これからの目標を聞かせてください。
サーファーのニーズに応えるサーフボードを提供することが、今の自分の一番の目標ですね。サーファーが求めるボードの上をいくシェイプデザインをしてあげる。そうすればなおさら感動してくれるでしょう。サーファーとシェイパーの追いかけっこみたいですが、そうすることがシェイパーとしての永遠のテーマだとかんじています。
取材協力
インタビュー:大森修一
PHOTO:HIROKO TANIUCHI , GRACE SURF

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