火曜日 11月28日 2023年
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加藤 嵐 – Arashi Kato –

加藤 嵐(カトウ・アラシ) ニックネーム: アラシ 生年月日: 1993年7月 18日 身長: 169cm 体重: 62kg スタンス: レギュラー ホームブレイク: 志田下、千葉 居住地: いすみ市岬町、千葉県 スポンサー各位: VOLCOM、Y.U、BeWET、OAKLEY、DAKINE、Future Fins、Ctric Amino、Bond Surf 2008年ASP Japan Tour Cadet ランキング: 1位 お気に入りのボード: Y.U お気に入りの波: 志田下、ニューポートビーチ、スナッパーロックス お気に入りの旅: オーストラリア、カリフォルニア、ハワイ、日本全国 お気に入りのサーファー: ブルース・アイアンズ、ケリー・スレーター、田嶋鉄兵、田中英義 お気に入りの食べ物: 全部 お気に入りのサウンド: J-POP 千葉期待の新星サーファー。2008年は千葉OAKLEYと福島MURASAKIで優勝している。カデットのグランドチャンピオンに輝いた。今シーズンからはプロジュニアに集中し、世界ジュニアチャンピオンズを目指す。 INTERVIEW 小さい時から家族とよく通っていた湘南で、5歳の時に初めて父のボードで波乗りを体験する。 それ以来、サーフィンの虜になった加藤嵐。 10歳で初めての大会に出場するが、その時の成績は優れたものではなかった。しかし、加藤嵐は少人数で、乗りたい波を選べるという、普段するサーフィンとは違ったコンディションが気に入り、それからさらに大会に積極的に参加するようになった。サーフィンに専念するため、12歳のときに家族で横浜から千葉に引っ越す。その一年後、加藤嵐はVolcomの目に留り、彼にとって初めてのスポンサーとなる。 そして16歳で、正式にJPSA認定のプロサーファーとなる。 2010年、加藤嵐は17歳にしてJPSA Rookie of the Yearに選ばれるという名誉を獲得する。 驚くべき速度で成長を遂げた加藤嵐。この来る2011年、彼はどんな野望を胸に秘めているのだろうか。 彼にとって2011年は高校最後の年となる。学業の傍ら、JPSA Tour、日本でのQS、全てのジュニアプロを成し遂げたいとおもっている。 生まれ持った素晴らしいサーフィンのタレントがあるのは明らかであるが、彼は謙虚でいること、そして向上心を忘れない。週に4回はランニング、ウェイトトレーニングに取り組み、可能な限り、波がある日も、ない日も水の中に入る努力をしている。先輩からのアドバイスにもしっかりと耳を傾け、それを自分のサーフィンに取り入れ、常に向上を目指している。 加藤嵐は彼の日本におけるサーファーとしてのキャリアには限りがあると感じている。 そう感じる彼にとって、毎年冬、ハワイで様々なサーファーと切磋琢磨する経験は必要不可欠なものである。「ハワイに来ることで、世界のメディアの目にとまることがあればうれしいとおもっています。大きい波にもっとレールに乗ってサーフしたいですね。いつもハワイにくると、世界中からたくさんのサーファーがきているので、自分がどんなレベルにいるのかを知るいい機会になっています。そして必ず、前の冬よりも大きい波、いいチューブに乗れるように、それと良い写真も撮ってもらえるようにがんばっています。ハワイはビーチもきれいで、ハワイの人はとても心が暖かくて優しいので大好きです。」 高校も終わっている2012年には、JPSAではなく、QSにフォーカスしたいと考えている加藤嵐。 彼の夢は、日本内だけでなく、世界でリスペクトされるサーファーになること。 彼がこのまま向上心と謙虚さを忘れることなく前に進み続けたら、それはきっと難しいことではないはず! 取材協力 インタビュー:アリッサ・ウーテン PHOTO:カービー福永

ジェイソン・カシワイ – J.Kashiwai –

JASON KASHIWAI(ジェイソン・カシワイ) 1965年11月14日生まれ。Miilani 出身。 父親はカウアイ島出身。母はオアフのパロロ出身。 今年でサーフィン歴33年。シェープ歴23年。グレンミナミやTown and Country などでシェープを学び、ハワイはもちろん、沼尻和則や工藤吉尚、シバッツなど、日本のTOP サーファーなどの板を削るようになり、日本人用にカスタマイズされたボードは多くのファンを持ち、熱い信頼を持つ日系ハワイアンシェーパー。現在は、大海 英一氏が代表を務めるインスパイヤサーフボードのメインシェーパーとして日本人サーファーにシェープを通じてインスパイヤし続けている。 INTERVIEW Q : ホームブレイクはどこですか?サーフィン歴は? ホームブレイクは、Ala Moana Beach Park. 12歳の頃からサーフィンをしているので、33年間サーフィンをしています。 Q :サーフィンの魅力は? サーフィンの魅力は人によって色々なスタイルがあるからこそ、誰にも何も言われずにありのままの自分になれるところ。 Q :シェイピングを始めたのはいつ?きっかけは? シェイピングを始めたのは、22歳の頃。きっかけは、昔のSURFLINE Hawaiiという所に良く子供の頃から通っていて、その頃自分の板をシェイプしてくれていたのが Gabe Garduque。彼が自分をよくサーフィンに連れていってくれたんだ。きっと、彼の影響が大きかったんだと思う。そして、10代の頃Blue Hawaiiの...

木村恵一 – Keiichi Kimura –

木村 恵一(きむら けいいち) 1952年9月21日生まれ、58歳。和歌山市出身。サーフィン歴40年。生粋のローカルサーファーとして関西屈指のサーフスポット磯ノ浦ビーチの成り立 ちを見つめ続けている。江戸時代から150年以上続く、和歌山市のなかでも老舗の水産企業である山利の6代目。板子乗りから始めた長老ローカルながら今で もショートボードにこだわるグッドサーファー。お酒とお話が大好きな陽気な性格だけに日本中にフレンドがいる。また仕事とサーフィンを続けながら国内外を 問わずグッドウェイブを求めて出かけていく旅好き。お年寄りと若い子が一緒に力を出してサーフィンを盛り上げようと、プロサーファーや夢を追うキッズサー ファー、アマチュアサーファーのサポートを続けている。 しらす創り七代目「山利」 http://www.yamari.info/ INTERVIEW Q : 今年は暑い夏でした。どう過ごされていたんですか? 四国に行ってました。河口が良くて3度も通った。最後の高知はいい波だったし、普段は出会うチャンスがないローカルとも話しが出来た。それにミラクルもあった。前回のトリップの時になくしたフィンをカービーが次のトリップの時に隣の河口付近で拾ってくれたんです。女房はカービーの冗談に乗せられたって最初は信用しなかったけど、本当のことやからね。3日も前に海でなくしたものが、違った場所でそのまま帰ってくることって、なかなかないでしょう。仲良くしているカービーとの結びつきの強さを感じる良い想い出になった。 Q :さて、サーフィンとの出会いは、どんなだったんですか? 子供の頃に家の目の前にある海で遊んだ板子乗りですよ。磯ノ浦は1960年代後半に入って、大阪の人がサーフィンカルチャーを運んできて、それで一気にサーフィンのイメージが変わったんです。俺は高校生だった。それからしばらく、地元ではサーフィンに良いイメージは無かった。サーフィンは不良のやることだというイメージやったからね。でもローカルサーファーはいたんですよ。母系のおじさんが大阪の高島屋で買ってきたロングボードが俺の家においてあるのを覚えてます。俺が8歳くらいの時かな。60年頃ですね。スバル360に乗せて、なけなしの金で買うたんやと笑ってました。それが70=71年になって、ジェリーさん、ヘンリーさん、梶サンとか、大阪の人が大勢サーフィンに来るようになった。それでも磯ノ浦に入っているサーファーが10人前後の時代です。俺は高校生で、大阪のサーファーがショートボードでサーフィンしていたのを覚えている。 Q :そこから、なぜサーフィンにはまってしまったんでしょうか? サーファーはカッコいいから。それにサーフィンがメチャクチャ楽しく波の上に立って横に走っていく時の気持ちよさは格別でしょう。サーファーは格好良くて女の子にもてる。それが動機でした。それにサーフィンは憧れのアメリカの匂いがした。当時、サーフィンしていると近所の目が気になった。家の目の前が磯の浦なのに、わざわざ車に乗って行ってウェットに着替えてサーフィンしていた。スケートボード、サーフィン、ワークブーツ、ジーンズ、ネルシャツとアメリカの西海岸カルチャーが、Made in USA という雑誌で紹介されたりして、当時に一大ブームになった。俺もそこに紹介されてるものは、ほぼ取り込んだからな。大学時代は先輩達がいる海の家でたむろして、ナンパして、海水浴時間が終了した夕方にサーフィンする。ビーチで過ごすというサーファーのスタイルにドップリと浸かってた。冬だけ仕事して、夏はずっと海にいる先輩たちも多くいた。古き良き時代。忘れられない青春だね。 Q : 大阪のサーファーは、良い意味でも悪い意味でもサーフィンビーチ磯ノ浦に大きな影響を及ぼしたんですね。 73年頃のことだけど、冬の11月ともなるとサーファーは多くても10人前後。だからすぐに顔見知りになる。サーフィンが終わって夕方に銭湯へ行くと、それまで海にいた人たちが入っている。そこで波乗りの話が盛り上がる。銭湯を出れば、大阪のサーファー達はバンを改造して寝泊まりしていたから、その車を見せてくれた。ここまでするのかと。サーフィンに夢中になる熱い気持ちを知ることになりましたね。 Q : サーフィンの世界が広がっていったんですね。 地元では嫌われ者でも、海の中では気持ち良くなれる仲間。それがサーファー。そんなつながりで伊勢や四国にも出かけていくようになっていった。生見は草むらでペリカンが目印だった。磯ノ浦に波がない時は東面の伊勢に通った。夜に和歌山で飲んでから、そのまま向かうんやけど、ジャクソン・ブラウンのカセットを何度も聴きながら、ちょっとした旅気分だった。その勢いで南紀に出かけていったのもこの頃。それから従兄弟がサンフランシスコに住んでいたから初めて外国にもサーフトリップに出かけた。ハーフムーンベイでサーフィンした後、サンタクルーズのオニールショップで最新のアニマルスキンを買ったら、そこにパット・オニールがポルシェ911で登場して驚いた。いろいろな刺激を受けてレベルアップしたし、俺が一番波乗りしていた時代だった。 Q : 76年に結婚されて、そこから夫婦二人のサーフトリップになるんですか? そうはいかない。父親が他界して家業の山利を継ぐことになった。サーフィンは一時封印。 Q : サーフィン封印は、どのくらい続くんですか? 封印というよりも、仕事中心の生活ということ。サーフィンはがまんして合間にちょこっとする感じ。とにかく家業に集中していた。それが40歳になるまで続いた。全力で頑張ったよ。この時があるから今があると思ってる。 Q : 40歳で人生の一区切りがついたんでしょうか? そういうことになるかな。93年のタヒチ旅行から、女房と一緒のサーフトリップがスタートした。世界中のレフトのグッドウェイブに乗りたいと思う。想い出に残っているのはレ・ユニオン、モーリシャス、コスタリカ、タヒチ、フィジー、サモア、スリランカ、ニューカレドニア、フロリダ、カリブ海、G-LAND、とにかく行きまくりました。 Q :...

谷内太郎 – Taro Taniuchi –

谷内 太郎(たにうち たろう) 1966年1月21日生まれ、44歳。東京都出身。画家の故谷内六郎氏の長男。13歳の時にハワイで初サーフィン。15歳から千葉県鴨川市でサーフボード ファクトリー修行の道に入り、25歳でJPSAロングプロとして活動しながらサーフボードシェイピングを本格的にスタート。30歳でグレースサーフボード を設立。マジックボードを提供するシェイパーとして国内外で絶大な信頼を寄せられている。もちろんグッドサーファーとしても知られた存在で。ハワイのパイ プラインを筆頭とするビッグウェイバーであり、日本国内をくまなく旅するウェイブハンターでもある。 主なスポンサーは、ダブウェットスーツ、T-Line、エニシ、Zen、Maneuverline、Ronin、ルールズピープスなど。 GRACE SURF http://www.gracesurf.jp/ INTERVIEW Q : 暑い夏です。今年はどう過ごしました? 一年に2回の全国波巡りをやってました。親子で行って、サーフボード試乗会やりながら。日本全国のディーラーさんを尋ねてます。 今年の夏は、九州の日南でグレースのライダーをやってもらっている仲迫ケンゴ君の所で楽しませてもらってから、広島から日本海の島根で遊ばせてもらって、最後は大阪に行って一泊。淀川でボートサーフィンしました。連れて行った子供も大喜び。ボートサーフィンは普通のサーフィンで立てない子が、最初から立てちゃうから凄い楽しい。出来る子はアップスンも始めちゃったりして上手くなっちゃう。大都会のらロケーションも違うノリだし、波を立てて引っ張ってくれるモーターボートの目の前でパフォーマンスするから皆の盛り上がりも半端じゃない。最高でした。 Q :楽しかったでしょうね。夏は仕事が忙しいのかと思ってました サ?フボードファクトリーにとって、夏のお盆が過ぎると一年の半分以上が終わったという感じ。 あとは一息ついて、秋にも同じように南は九州から北は北海道へと仕事をかねる旅に出る。そして次が冬のハワイ。だからハワイの前に、もう一つ二つ仕事のピークが舞い込みますようにと心で祈りながら、毎年ハワイに行く日を待っているわけです。 Q :グレースサーフボードの''グレース''とは、どんな意味合いが込められているんですか? それとロゴマークは円形で特別に意味がありそうなデザインですね。 グレースにはいろいろな意味があって深い言葉で、その中でも、祈り、恵み、感謝、そんなイメージを大切にしたサーフボードにしたかったので、受け取る気持ちを大事に、パワーをいただきながら、いいものを造っていきたいと願ってグレースに決めました。ロゴマークは、小学生時代から仲良く家族ぐるみでおつきあいさせてもらっている画家の横尾忠則さんが製作したくれたものです。 地球と海と南十字星がデザインされています。この3つが、横尾さんのサーフィンに対するイメージなんです。15年前に自分自身でボードメーカーを立ち上げる時に、シンボルとなるマークを横尾さんにお願いしたら、「あ、そう、わかった。」と簡単に引き受けてくださった。あの頃のサーフボードにはアルファベットの横文字を崩したマークがほとんどだったけど、出来上がってみたのは丸形。想像を超えていてビックリしたけれど、完成に至るまでのラフを見せてもらうと感動に変わりました。 自分にないものをイメージにする力。サーフィンやったことのない人が、ここまで造り込んできたのは凄いことだと思った。 Q : サーフィンとの出会いとは、どんなものだったんですか? 小学校を卒業するまでは東京。中学生からハワイへ母親と移り住むことになって、学校の同級生のハワイアンの家族がやっていたワイキキのレンタルボードでサーフィンしたのが最初でした。ハワイで暮らすことになったのは自分の小児喘息を治すには空気の良いところということで両親が決めたんです。父親も同じ病で子供の頃に千葉の勝浦で療養していたからで、息子はハワイで治してやろうと考えたんでしょう。 Q : ハワイの子供としてサーフィンのスタートを切るんですね。 タウンの公立小学校で、ハワイアンもさることながら、ベトナムのボートピープル、ラオス、トンガとかの子供が多い学校で、俺は友達と一緒に道路で新聞売りの手伝いなんかもしたりして仲良く暮らしていました。 その中のハワイアンの一人がワイキキのビーチボーイの息子で、『サーフィンやろうや!』の一言でハマって。それからは毎週ビーチに行ってました。その後ワイキキからハワイカイの公立中学に移ってからはダイアモンドヘッドとかで毎日学校が終わるとサーフィンしていました。 Q : 楽しくて、夢中だったんでしょうけど、子供ですから外国暮らしは辛いこともあったんでしょう。 母と二人でハワイに移住したのですが、辛いことは、まず英語がまったく最初解らなかったこと。それと、当時はまだまだ人種差別があったこと。しかも、日本人留学生は俺一人だけだったから、生活や考え方がそれぞれの国によってまったく違うということも痛感させられたし。でも、それが今思えば凄い刺激になったし役立っているんですけれどね。 Q : サーフボードシェイピングをするようになったきっかけは? 父親の影響ですかね。太郎は職人になれ。職人になれと、子供の時からずっとそう言われて育ってきたんです。俺の部屋は父親の仕事部屋で、夜に父が絵を描いている横に布団を敷いて寝るんですけど、何かというと職人になれといわれ続けてました。それが今の自分になるきっかけだったんでしょう。 初めてサーフボードが美しくて素晴らしいものだと意識したのはハワイ2年目の時でした。自分のサーフボードが欲しくなって探していたら、学校の近く、アラモアナの裏にディック・ブルーワーのショップがあって、ラリー・バートルマンやデーン・ケアロハのタウン&カントリーの中古も見たけど、ブルーワーのティントのガンがたくさん並んでいた。黄色、赤、グリーン、ブルー、キラキラ透明に輝くティントカラーにラミネートされたブルーワーの新品ガン。あまりの美しさに「これだ」と衝撃が走った。'80年代の出来事です。店員さんは日本人の方でした。 でも翌年に父親が亡くなったんで日本に帰国しインターナショナルスクールに入ったけど、その時にはもう父親に言われたとおり、職人、サーフボード職人になろうと決めていたのですぐにやめて、親戚が鴨川に住んでいたので、ミッキー川井さんを紹介してもらいました。そして、挨拶に行って、サーフボードの勉強をしたいとお願いしたら、『やってみるか』と、俺を受け入れてくれたんです。それから28年。ずっと鴨川でサーフボードを削り続けてます。 Q : マジックボードを手にするために、サーファーがボードをオーダーする時に、一番大切なことはなんですか? シェイパーとのリレーションシップを深めることです。どんなボードが欲しいのかを出来るだけ細かく伝えることです。どこが、どういう波の時に、どう乗りたいのかを、できるだけ正確に伝えて欲しい。でも、たいがいは感情が入ってしまうんですね。ライダーの実力レベルもそうですが、心や身体の調子でサーフィンは上手くなったり下手だったリ。自分に自信があるサーファーほど落ち入りやすい。波の状況や、サーファーの実力にあわせ、求めるライディングやスタイルを実現させてあげやすい道具を造るのがシェイパーの基本。正確な情報を集めるのもシェイパーの仕事の一つですね。 Q : グーフィーでパイプライナーの太郎さん。初めてパイプラインにライドしたのはいつだったんですか? 18歳の時ですね。小川昌男さんと一緒に行って、ベルジーのヒロさんハウスで堀口鉉気さんとルームメイトさせてもらった冬です。パイプラインは子供の頃から穴のあくほど見ていました。中学生の時は行かなかったけど、グーフィーの波で、あんなにでかいチューブでしょう。ビッグウェイバーはヒーローで尊敬される。自分もその中に入りたい。乗りたい。やりたい。いってやる。でかい波に乗れなきゃ。そういう気持ちが身体中に充満していた。乗って自慢したかったというのもあるけど熱い気持ちです。 Q : 実際にパドルアウトするとどうでした。 待ちに待った3月のパイプラインでした。サイズは8?10ft。10人ぐらいのサーファーが入ってました。セカンドリーフが割れるかどうかでしたけど、ビッグセットが入ると沖からグァーと波のピークが盛り上がってスゲー景色。もちろん俺はインサイドにスタンバイしてました。それでタイミング見て夢中でパドルしたら、いきなり1本目から乗れました。ドロップするんですが、波が巻いてきてボトムに降りていかない。でもなんとかメイク。それでテンションが上がってメンバーがポジションしているピークに入っていった。チャンスはすぐに来た。6ftに狙いをつけて夢中で漕いだ。行ける。そう思った瞬間、空中を頭から真っ逆さま。水面におちる瞬間に海底のリーフの影がズウァーと目に入ってきて、そのままズッポリとパーリング。しかし身体は水中に深く入らず波の面に巻き上げられて無重力状態。そこからズダーンとリーフに叩き付けられてボードはまっ二つ。分からされました。ベルジーの家への帰り道、テイクオフできた喜びと、痛い目にあった地獄、もっと乗りたいという欲、この3つが頭の中でグルグルと交錯してました。馬鹿とは言われるけど、これがパイプラインなんだと、鮮明なイメージとして心に焼き付いています。 Q :...

守山倫明 – Michiaki Moriyama –

守山 倫明(もりやま みちあき) 1958年生まれ。京都府京丹後市網野町出身。 サーファーやボディボーダーの視点から海辺の環境保護活動を行なっている団体「サーフライダー・ファウンデーション・ジャパン」代表。 八丁浜・琴引浜をホームポイントとするサーファー。高校時代、大阪から来たヒッピーのようなサーファーを見て感化され、その後サーフィンに没頭。父親の病 気をきっかけに家業の旅館業を継承。同時期大阪のショップライダー。1983年地元で『ソルジャーブルーサーフショップ』を開業。ポイ捨てごみ・漂着ご み・消波ブロックの投入・埋め立てによるホームポイントの破壊に感じ、サーファーによるビーチクリーンナップなどの啓蒙活動や埋め立て反対運動を起こす。 日本海側では初めてのJPSAクリーンビーチカップ網野・琴引浜での「はだしのコンサート」などを行う。また、1997年のロシア船ナホトカ号重油流出事 故にあたり「丹後ボランティアネット」を設立。 サーフライダー・ファウンデーション・ジャパン http://www.surfrider.jp/ INTERVIEW Q : サーフィンを始めたキッカケを教えてください。 もともと海が好きで、1970年代、車の中で寝泊まりをしているヒッピーのようなお兄さんたちが京都・八丁浜でサーフィンをしていました。そのお兄さん達のサーフカルチャーに影響を受け、初めてサーフボードを借りてサーフィンを始めました。その頃には、FREE RIDE やMENY CLASSIC MOMENT、BIG WEDNESDAY などのサーフムービーも世の中に浸透し始めたころでした。 Q : サーフライダーファウンデーションの発足の経緯を教えてください。 1983年 もともと『サーファーの立場から海浜環境を提案する』というテーマのもと、アメリカでサーフライダーファウンデーションは発足されていました。 アメリカの立ち上げメンバーが日本でもサーフライダーファウンデーションの立ち上げを考えていた時、鴨川のヨットハーバー設置計画を自らパドルアウトして抗議した大久保ともみさんという方に白羽の矢がたった。その後、大久保さんが代表のもと千葉・鴨川に事務所を置いてサーフライダーファウンデーションジャパンが日本で初めて発足しました。 僕は、1997年に日本海でロシア船のナホトカ号重油流出事故が起こったとき地元、八丁浜・琴引浜も重油で被害に遭いました。 その際、重油の回収作業に多くの人が気持ちがひとつになり、サーファーもボードを待たずに一心不乱に油の回収作業に取り組みました。親交のあったニック野崎もラジオ番組でPR をしてくれて、次の日には400人の人が集まってくれました。 それをキッカケにサーフライダーファウンデーションジャパンとも交流をもち、義援金やボランティアの組織作りなど多くの経験をさせてもらいました。その後、1998年理事になり、2004年からは大久保さんからバトンタッチされて代表をさせてもらっています。 Q :日本の海はどんな問題を抱えていますか? 多くの問題を抱えいます。 日本という国は周囲を海に囲まれ日本人に取って海は必要不可欠な存在だと思っています。日本では非常に災害が多く、その災害の後、国や地方自治体が復興するという形を取ってます。その復興工事などではビーチに必要のない工事などが最近増えています。そもそも公共工事というのは戦後の復興とともに内需を拡大したいという国の政策から始まっています。災害を防ぐという名の下に、そこに産業が生まれ、その政策の一環で海岸に多額の公共投資事業が始まりました。結局その事業の元に自然できれいな海岸が「ふと」気づくとコンクリートで覆われていたなんてことが日本各地で行われ問題となってきました。これはサーファーだけの問題ではなく、この島に住む日本人としてもう一度よく考えてもらいたい局面にきていると私は思います。税金の使い道もこのような事業に、はたして必要なのかと考えてもらいたい時期に来ていると思います。その象徴的なものがあります。茨城阿字ケ浦に4?5 km のロングビーチがあり、サーフスポットやキレイなビーチや海水浴場として有名なところがあります。そこの海岸で公共事業が行われましたが、現在では砂は浸食されて以前のビーチとは比べ物にならないくらい瀕死の状態となっています。この工事に関して地元住民はもとよりサーファーなどに工事内容、プランは知らされず工事が着工されました。そこに大きな問題があると思っています。そこに住む住民が自分たちの大切なビーチをしっかりと見守る必要があると考えています。無駄な税金を使わずに将来性のある海岸づくりをしていこうという提案をして行きたいと思っています。 Q : 全てのサーファーにしてもらいたい環境保護活動について教えてください。 環境保護活動のひとつとしてビーチクリーンがあります。 サーファーの最低限のマナーとしてポイ捨てをしないことそれが最低限のマナーではないでしょうか。 イベントとしてビーチクリーンを皆でやる事それもひとつ大事な事でしょう、しかしサーファーがビーチできづいたゴミなど1つ持ち帰るだけでビーチは常にクリーンな状態になります。その行動を10万人のサーファーが行った場合10万個のゴミを回収できる。その意識が大事だと思います。ビーチにゴミを放置した状態にすると鳥や魚、亀たちが食べてしまい生態系全体への悪影響も懸念されます。 もうひとつとサーファーができる環境活動しては「アンプラグ」もできると思います。サーフィンをしている時は、常に自宅の電化製品のコンセントを抜くことで「待機電力」をセーブすることもできると思います。もうひとつは緑をふやす活動も重要だと考えています。ビーチというのは海があって渚があり、そしてビーチ、防風林などがあり、そして街があるその形成があるからこそビーチがなりたっているからです。そのビーチ周辺の公共事業等で遊歩道を全てコンクリートにしたりすると海岸の浸食等の問題も懸念されます。そのためにもビーチに緑を増やし海岸を守る活動も重要だと思います。 Q : サーフライダーファウンデーション代表という立場で今までいろいろなご苦労をされているとおもいますが、最高な出来事と最低だった出来事を教えていただけますか。 最高だった事はいろいろなサーファーに出会えた事ですね。 サーファーは地域間のトラブルやローカル・ビジターの問題、海岸工事など、同じ悩みを持っている人が多く、その悩みを共有し、情報交換することでサーファー同士で解決できることが最高だと思います。代表になりいろいろなところに行くようになっていろんな人と出会えて、悩みや楽しみを共有できる事それが私にとって最高の出来事だと思っています。 最低の出来事…。結構ありますね (笑) サーフライダーファウンデーションと聞くと環境保護団体という堅苦しいイメージがついてるんですよ。国に水質調査やいろいろ提言する時はデータ収集をしてしっかりとした提案をしますが、その活動があまり理解されていないことが多いので少し悲しいですね。事務局には励ましのメールなどもありますが、中には誹謗・中傷などを頂くこともあります。活動が理解されていない方々からのそのようなメールは非常に悲しくなる時もあります。サーファー同士意見をぶつけられることができれば良いのですが、一方的な意見などを頂くことが最低な出来事だと思う事もあります。 Q :...
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