土曜日 3月6日 2021年
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木村恵一 – Keiichi Kimura –

木村 恵一(きむら けいいち)

1952年9月21日生まれ、58歳。和歌山市出身。サーフィン歴40年。生粋のローカルサーファーとして関西屈指のサーフスポット磯ノ浦ビーチの成り立 ちを見つめ続けている。江戸時代から150年以上続く、和歌山市のなかでも老舗の水産企業である山利の6代目。板子乗りから始めた長老ローカルながら今で もショートボードにこだわるグッドサーファー。お酒とお話が大好きな陽気な性格だけに日本中にフレンドがいる。また仕事とサーフィンを続けながら国内外を 問わずグッドウェイブを求めて出かけていく旅好き。お年寄りと若い子が一緒に力を出してサーフィンを盛り上げようと、プロサーファーや夢を追うキッズサー ファー、アマチュアサーファーのサポートを続けている。
しらす創り七代目「山利」
http://www.yamari.info/

INTERVIEW

Q : 今年は暑い夏でした。どう過ごされていたんですか?
四国に行ってました。河口が良くて3度も通った。最後の高知はいい波だったし、普段は出会うチャンスがないローカルとも話しが出来た。それにミラクルもあった。前回のトリップの時になくしたフィンをカービーが次のトリップの時に隣の河口付近で拾ってくれたんです。女房はカービーの冗談に乗せられたって最初は信用しなかったけど、本当のことやからね。3日も前に海でなくしたものが、違った場所でそのまま帰ってくることって、なかなかないでしょう。仲良くしているカービーとの結びつきの強さを感じる良い想い出になった。

Q :さて、サーフィンとの出会いは、どんなだったんですか?
子供の頃に家の目の前にある海で遊んだ板子乗りですよ。磯ノ浦は1960年代後半に入って、大阪の人がサーフィンカルチャーを運んできて、それで一気にサーフィンのイメージが変わったんです。俺は高校生だった。それからしばらく、地元ではサーフィンに良いイメージは無かった。サーフィンは不良のやることだというイメージやったからね。でもローカルサーファーはいたんですよ。母系のおじさんが大阪の高島屋で買ってきたロングボードが俺の家においてあるのを覚えてます。俺が8歳くらいの時かな。60年頃ですね。スバル360に乗せて、なけなしの金で買うたんやと笑ってました。それが70=71年になって、ジェリーさん、ヘンリーさん、梶サンとか、大阪の人が大勢サーフィンに来るようになった。それでも磯ノ浦に入っているサーファーが10人前後の時代です。俺は高校生で、大阪のサーファーがショートボードでサーフィンしていたのを覚えている。
Q :そこから、なぜサーフィンにはまってしまったんでしょうか?
サーファーはカッコいいから。それにサーフィンがメチャクチャ楽しく波の上に立って横に走っていく時の気持ちよさは格別でしょう。サーファーは格好良くて女の子にもてる。それが動機でした。それにサーフィンは憧れのアメリカの匂いがした。当時、サーフィンしていると近所の目が気になった。家の目の前が磯の浦なのに、わざわざ車に乗って行ってウェットに着替えてサーフィンしていた。スケートボード、サーフィン、ワークブーツ、ジーンズ、ネルシャツとアメリカの西海岸カルチャーが、Made in USA という雑誌で紹介されたりして、当時に一大ブームになった。俺もそこに紹介されてるものは、ほぼ取り込んだからな。大学時代は先輩達がいる海の家でたむろして、ナンパして、海水浴時間が終了した夕方にサーフィンする。ビーチで過ごすというサーファーのスタイルにドップリと浸かってた。冬だけ仕事して、夏はずっと海にいる先輩たちも多くいた。古き良き時代。忘れられない青春だね。
Q : 大阪のサーファーは、良い意味でも悪い意味でもサーフィンビーチ磯ノ浦に大きな影響を及ぼしたんですね。
73年頃のことだけど、冬の11月ともなるとサーファーは多くても10人前後。だからすぐに顔見知りになる。サーフィンが終わって夕方に銭湯へ行くと、それまで海にいた人たちが入っている。そこで波乗りの話が盛り上がる。銭湯を出れば、大阪のサーファー達はバンを改造して寝泊まりしていたから、その車を見せてくれた。ここまでするのかと。サーフィンに夢中になる熱い気持ちを知ることになりましたね。
Q : サーフィンの世界が広がっていったんですね。
地元では嫌われ者でも、海の中では気持ち良くなれる仲間。それがサーファー。そんなつながりで伊勢や四国にも出かけていくようになっていった。生見は草むらでペリカンが目印だった。磯ノ浦に波がない時は東面の伊勢に通った。夜に和歌山で飲んでから、そのまま向かうんやけど、ジャクソン・ブラウンのカセットを何度も聴きながら、ちょっとした旅気分だった。その勢いで南紀に出かけていったのもこの頃。それから従兄弟がサンフランシスコに住んでいたから初めて外国にもサーフトリップに出かけた。ハーフムーンベイでサーフィンした後、サンタクルーズのオニールショップで最新のアニマルスキンを買ったら、そこにパット・オニールがポルシェ911で登場して驚いた。いろいろな刺激を受けてレベルアップしたし、俺が一番波乗りしていた時代だった。

Q : 76年に結婚されて、そこから夫婦二人のサーフトリップになるんですか?
そうはいかない。父親が他界して家業の山利を継ぐことになった。サーフィンは一時封印。
Q : サーフィン封印は、どのくらい続くんですか?
封印というよりも、仕事中心の生活ということ。サーフィンはがまんして合間にちょこっとする感じ。とにかく家業に集中していた。それが40歳になるまで続いた。全力で頑張ったよ。この時があるから今があると思ってる。
Q : 40歳で人生の一区切りがついたんでしょうか?
そういうことになるかな。93年のタヒチ旅行から、女房と一緒のサーフトリップがスタートした。世界中のレフトのグッドウェイブに乗りたいと思う。想い出に残っているのはレ・ユニオン、モーリシャス、コスタリカ、タヒチ、フィジー、サモア、スリランカ、ニューカレドニア、フロリダ、カリブ海、G-LAND、とにかく行きまくりました。
Q : 沖縄、バリ、ハワイには決まった時期に長期ステイなんですよね?
沖縄には2006年に出かけたのが最初。人の良さに一度で好きになった。一度会えば皆友達という、『イチャリバチョーデ』という沖縄の言葉があって、これが自分にぴったりの言葉。長年世界を旅してきて、こんな言葉があったのかと感激させてもらった。それ以来、その言葉に会いたくて沖縄にずっと出かけている。今では、沖縄に行くとみんな『お帰りなさい』と言ってくれています。
Q : バリにも惚れ込んで、チャングーにコテージを造ったんですね。
バリデビューは遅くて2000年が初めてだった。田舎のチャングーが気に入って、毎日クタから通うのが面倒だと感じるでしょう。人、空気、ライスフィールド、女房にとってもホッとするアジアの景色だよね。浜の漁師町だった自分の所と共通するノスタルジーと言ってもいいかな。でも、ここ2?3年で田舎だったチャングーがすっかり開発されてガッカリしているところなんだ。もっと早くからバリに行ってたら良かったよ。

Q : ハワイも好きですよね。ベルジランドで目撃しました
ハワイは75年が最初だったんだけど、その時はノースショアは知らなかった。それが90年から世界を旅するようになって、それまでフォトグの木本からハワイはいいぞと言われ続けて、ついに99年にクイリマに一ヶ月ステイして再チャレンジした。そうしたらノースの生活が面白かった。いろいろな友達が出来た。皆とやるサーフィンの楽しさ。それとサーフィンの厳しさ。もっと早くハワイの良さに気づきたかった。若い時にもっとやっておきたかった。俺が若いサーファーをサポートするのも、サーフトリップに出かけるのも、それが理由。
Q : サーフトリップは、どこに行くのも奥さんと一緒なんですね。
そうやね。女房と一緒が俺のサーフトリップの基本。宿やホテルに女房が残るけど、俺一人で海に行くのがいい。友達どうしだとスケジュールが合わないし、一人ならその土地のローカルとも仲良くなれる。ユニオンでは、一人で海に行って怪我まみれで帰ってきておどろかせたりもしましたがいつも、ついてきてくれるのは、女房だけでした。
Q : サーフィンは楽しんですね。
人との出会い、海から上がった後の爽快感、サーフィンするとホッとする。1本いい波に乗れた時の爽快感も格別。俺はサッカーも好きで、コーチなどもしましたが、自然と協調しながら波との一体感を味わえるサーフィンしかない。闘うんじゃないエンジョイサーフィンする。これがやっぱり最高です。
Q : さて、家業の山利は、どんな仕事なんですか?
漁師さんがとってきたシラスを加工をしているんだ。塩味だけでね。漁師さんにもサポートしている。昔は船をもっていて、五島列島へも遠征して出汁ジャコとったりしていた。山利の初代利衛門が江戸時代に創業したから150年以上やってる。俺が6代目で、息子が7代目。磯ノ浦で最初のシラス屋で、おじいさんが盛り上げて、父親が早くに亡くなったんで、若くして自分が継いだ。父親が亡くなったのは俺が大学4年になったばかりの21歳の時で、まだ単位が残っていたから、和歌山から東京まで1週間に1度通ってきちんと卒業。それから40歳にになるまでずっと日曜日も仕事。サーフィンは地元周辺でしか出来なかった。でも、シークレットの開拓などホームポイントが出来たのがいい想い出。

Q : 山利はサーフィン業界や、スポーツ、ファッション業界でもないのに、堀口真平を筆頭にサーファーを数多くサポートしてますね。
プロと一緒に行くサーフィンが好きなんよ。俺の介護をしてくれるし、彼らのサーフィンが深いでしょ。彼らを見るのが好きで、それに俺は人と話すのが好きだから、彼らとワイワイやって、俺にとっても刺激になる。『自分がやりたい時にサーフィンする』『サーフィンやると友達できる』この2つを若い子達に伝えたい。サポートは今の自分がやれる範囲でやってます。業界が別だから出しゃばる気持ちはないけど、夢を追うプロサーファーやキッズたちを仲間としてサポートしていくつもりです。年寄りと若い子達が一緒に夢を感じる。楽しいでしょう。
Q : これからの人生は、どう過ごすつもりですか?
エンジョイサーフィンでサーフィンライフを貫きたい。もっともっと旅を続ける。ショートボードにこだわりたいけれど、どんなボードになっても、どんな生活になっても海に入っていたいから海の中に入っていたいから今を頑張って先に繋げていく。仕事をしながら旅を続けて世界のレフトの波をやって行きたい。そんなとこかな。

Q : 最後に、磯ノ浦ローカルである木村さんから、サーフィンの基本であるローカリズムについて教えてください。
ビジターもローカルも、お互いをリスペクトする。それがローカリズム。リスペクトとはあいまいな言葉で、パターンはないし、人それぞれに違うけど、あえて商売で言えば、『自分も儲けなさい、そしてお客さんも、商売相手も儲けさせる。』こんなかんじかな。商売は相手を儲けさせなければ次がないし、友達にもなれないからいい目にも会えない。無視すればするほど、お互いが成長できない。問題やトラブルも発生する。でも人間は弱いもの。言葉一つで、その場の雰囲気が変わる。リスペクトには様々な意味があり、いろいろなシュチュエーションがあるけど、人との付き合いを大切にするということを若い人に学んで欲しい。沖縄では、オジイやオバアの年上を守って大事にする。そういうことじゃないかな。
Enjoy Surfing !! Enjoy Nature !!
介護サーフィンで、なんくるないさー!
取材協力
インタビュー:大森修一
PHOTO:カービー福永
木本直哉

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